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SINGLE POST

彼女からのお手紙 

クライエントさんのお一人が、お手紙を書いてくれました。

とても美しい字で、想いをこめて

便箋24枚の心の物語。


それは、まるで彼女の手記です。


どこかで、困っている誰かに届きますように…という思いを込めて書いてくださいったので、ここに全文を紹介したいと思います。





 私は、40歳で第二子を出産した。その頃は、世界でコロナが流行し始め、マタニティ期も出産期も第一子を産んだ頃とは様変わりしていた。とても不安だったことを覚えている。それ以外にも、私は、第二子を産む前に、新しいパートナーと再婚し、長男とパートナーと三人で生活をスタートさせたばかりだった。家族が増える楽しみもあったし、未来は明るいとばかり思っていた。


 そんなはずだったが、出産後、ホルモンが出産前のように戻らず、体力は落ち、新生児の授乳やお世話を必死でやっていたが、娘が産後すぐに体調を崩し、自分も乳腺炎になったことから転がるようにおかしくなっていった。シャワーの音やすべての音が赤ちゃんの泣き声に聞こえ、精神的にずっとスィッチの入った状態というのだろうか。眠ろうとしても眠れない。暗闇が恐ろしく感じ、脳が休まらないのだ。朝が近づけば、どんどん恐怖になり、「私は、私じゃなくなる。恐い。」そう思った時、きっと私はもううつ状態になっていた。泣きながら旦那さんにお願いして、産婦人科に連絡してもらい、急遽診察していただいた。明らかに産後うつ状態と言われた。そして、すぐに隣接する精神科を受診することになった。

 

 精神科では、始めに、生まれてから今までの自分の過程や家族構成などのカウンセリングを受けた。と言っても聞き取りみたいなものである。初対面の人に、ましてや病院で事務的に今までのことをいきなり話せと言われても、今すぐ助けて欲しい状態の私には、すごく苦痛だった。その後に診察を受けるも、「赤ちゃんと離れる時間をとって下さい。」と何度も言われた。私には、到底、受け入れがたく、新生児と離れる時間?そんなの無理でしょう。母乳からミルクに変えることも母乳しかやったことのない私には、ミルクは手間がかかるという勝手な思い込みで、無理だと決めつけていた。そもそも、そんなことを言う先生は、私の辛さ、私が助けて欲しいと思うことに全く答えてくれない、と信用できないと思ったのだ。軽い眠剤をいただいたが、飲む気になれず、2回の受診だけで、病院に行くことが嫌になった。その間、たまたま母子手帳で見つけた保険センターへ連絡し相談した。

 

 物理的に私と赤ちゃんを少し話して、私が心身共に休める時間を作ろうと、すぐに動いてくださり、私は、家族4人での生活から、赤ちゃんと私は、実家でお世話になり、一定の時間をファミリーサポートの方が赤ちゃんを見てくれることになった。また、産後ケアという事業で、赤ちゃんを助産師さんに預け、私は、とりあえず眠る時間を確保するという体制をつくって頂いた。そして、私は、精神科から他の心療内科に通うことに決めた。少しの時間でもフォローがあったから、何とか育児を出来ていたのだと思う。でも、心身は、やはりなかなか戻らなかった。数回の産後ケアでも、だんだんと眠れないことが増えてきたのだ。


 助産師さんと保健師さんは、「すぐに母乳をやめよう。大丈夫!ちゃんとミルクに移行できるようにしていくから、安心して。」と私も限界に感じていた母乳育児をやめるという選択を思い切り背中を押してくれた。


 そして、一番は、赤ちゃんを一度、誰かに預けることを家族に伝えてくれた。

「私が育てるんだ。」という思いと、「もう、しんどい。」その気持ちが2つ、そこにあった。母親なのに赤ちゃんを手離すこと。上の子にも旦那さんにも負担をかけていること。そして、高齢になる母や妹にまで負担をかけていること。全てにおいて、「もうしんどい」と思ってしまうことは、すごく無責任なことに思えた。だから助産師さんたちの言葉がなければ、ギリギリの状態でどこまでもっていたのか、生きていられたのかすら分からない。


 事情を理解してくれたのは、旦那さんのご両親だった。すぐに赤ちゃんを受け入れると決めて私の状態を救おうと動いてくれた。赤ちゃんと離れた時は、ひざが崩れ落ちるようななんとも言えない喪失感で泣き崩れたことを今もはっきり覚えている。


 その日から、私はさらに「自分は何もできない無力な人間だ」「なぜ、こうなるの?」「私は、みんなを不幸にする」そんな自分を責める気持ちに支配されるようになった。

 みんな平気でできていることすら、私はできない…何かやらなくては。と思っていたのだ。新しく通いだした心療内科では、「とりあえず何もやらない。1日だらだらすること。」を徹底しなさいと言われた。そして、抗不安薬や抗うつ剤、眠剤を処方された。私は、こういった抗不安薬や抗うつ剤には、すごい抵抗があった。どうなるのか、どういう薬なのか、また、自分がうつなのだと認めることがすごく恐かったのだ。でも、私には、早くこの状態から抜け出したい、早く楽になりたいという気持ちが強かった。何とかすがる思いで薬を飲み出した。ただ、薬を飲み始めてからの1ヶ月が本当の地獄でもあった。


 薬が合うか、量などの調整もあるのだろうが、飲み始めてから恐ろしいほどの負の感情が溢れ出てきたかと思えば、頭がコントロールできなくなるような感覚、小刻みに身体が震えて動悸もする。一人で居ることに耐えられなくなって、訳の分からない恐怖に襲われる。何とかすがるような思いで、助産師さんに泣きながら子どものように「怖い、怖い…」と電話をした。一番辛かった時期は、この時期だったと振り返って思う。死がすぐそこにあったのだ。病院にも、「怖くて、怖くて…」と言うけど、先生は「また明日来てください。」「とりあえず、死なないで耐えて。」と言われるだけだった。

 でも、ただ頭がコントロールの及ばない状態になって、もう恐怖しかない時、私はただ「こんなに辛いなら、もういっそ死にたい。」と本当に思った。口にだすことを我慢していたけれど、この時ばかりは、そう言葉にしてしまった。ただ「死なないで下さい。」その言葉だけを片隅に、頼りにして耐えていくしかなった。


 一つ、母が「ギリギリまで、赤ちゃんをあなたは立派に自分お世話していたよ。一人でね。」と伝えてくれた。何よりも嬉しかった言葉だ。大きな山を越えて、私は早く治りたい、そのことばかり考えるようになった。でも、「何故、私はこうなったのだろう?」ということに必ず行き着いてしまう。そうなると、私の足りない部分があるからだというところに行き着いてしまった。あれが悪いからだ。私はダメな人間だ…その終わりなきループにはまってしまって抜け出せない。早く元に戻りたい。また家族4人で暮らしたい。でも、どうすればいいのか分からない。


 病院でも、先生は、いつまでも「ダラダラしなさい。」ばかり…。私は、どうしていけばいいの?先に進めないことへの不安と何故こうなったのかという原因の追求は、毎日ただ部屋の布団の上に居る自分に襲いかかってきた。


 そんな中でも、辛かった冬の季節が終わって、春へと向かっていた。私が初めてうつを意識したのは、12月の終わり。気が付いた頃には、もう3月に入っていた。とりあえず、旦那さんと息子の待つ家へ戻ること。母は、ちょうど手術と入院を控えていたので、妹にお世話になる。彼女への負担も苦しくなっていた頃で、自分の家に戻ることを目標に起きて、食べる、そして、寝る。その1日のリズムを整えること。ただそれだけを自分に課した。夜は、必ず眠剤を飲むこと。そして、どうすれば良いのかインターネットや本、頼れる情報を得ようと必死になった。でも、眠剤が効けば、朝は起きれないし、いつも朝からたったそれだけだと課した事さえクリアできない自分に、失望する繰り返し。それでも、5月のGWを目標として、ただ寝ることにフォーカスして、家に戻ると決めた。家に戻ることができた4月の終わりは、自分がずっと誰かに家事をしてもらうという生活から抜け出すことであったが、私は、何もしない自分をとんでもなく甘えた堕落した人間だと思っていたので、そんな自分が嫌だったし、最低な人間とまで思っていたが、反面、今までやってきたように家事をこなせるかという不安が大きかった。


 実際に戻ってみたけれど、まだ小学2年生の息子。今までは、旦那さんが朝実家まで送り届け、実家から登校し、下校していたり、学童に行っていたけれど、家から登校するには、私が、朝、登校班までついていってやらなければ班にも慣れておらず、私が朝起きることは必須だった。夜は、眠剤を飲んで、朝は起きる。ただそれだけ。息子は、旦那さんと二人生活で驚くほど成長していた。私がギリギリに起きても、食事を済ませ、用意してくれていた。彼を何とか送り届けたら、私は、また深い眠りについてしまう。そして、夕飯を作って、学童に迎えに行く。何とかそんなリズムをつくれるようになった。


 そんな頃、私は先輩であり、友人でもある人から、「話すことで伝えるのは難しいけれど、私を信じて一度、行ってみればいいよ。きっと今の状態から抜け出せる。大丈夫だから行ってみて。」と私の中学時代の先輩でもあるみとさんを紹介してもらった。


 以前の私なら、今の自分を私を知っている人にさらけ出すことは抵抗があったと思う。でも、あの時は、ただ友人の姿と言葉、そして、それ以上にすがるような想いで連絡をした。

 

 すぐにカウンセリングを受けられるように手配をしてもらい、初めてみとさんを訪れた時、私には、中学時代の先輩としてでなく、ただ、そこに温もりをもった人がいるように思えた。初めてのセッションは、何をどう話したかは分からない。今まで書いてきたことを存分に伝えたということだけ覚えている。色々な一つ一つの感情を。みとさんは、その感情を丁寧に色のついた紙に「どんな感じ?」と問いかけてくる。たった一つの感情だと私は思っていたが、いざセッションを受けると、それは一つではなくて、色々な感情がたくさんいて、そして、それぞれに言いたいことがあるのだ。感情だと思っていたものが、実はまるで生き物のように、声を上げているように。私自身も認識していなかった自分の声が、いくつも存在しているのだ。なんだか不思議だけれど、その生き物を見つけた途端、今までの怖い、不安ばかりに押しつぶされそうになっていた自分に、初めて、心の底から安心する、これからへの希望を少し見出すことができた。


 そこからは、自分で感情たちに名前と色をつけ、ただノートに浮かんできた気持ちや声を書いていくことを日課にした。どうした良いのか分からない時は、みとさんにLINEして、相談にのってもらい、丁寧に私という中に存在する生き物とひたすら会話した。


 でも、やはり一番厄介なのは、なぞこうなったか?という原因探しだった。もはや犯人捜しだ。そこが改善されなければ、私は、生まれ変わることができない。ずっとそう思っていたのだ。でも、小さなことでも全て犯人捜ししていのは自分だった。そんなことを次のセッションでみとさんに伝えたことがあった。そしたら、「犯人捜しもOKだと思うんだけど、探さないって選択をしていきたいな。そして、生まれ変わるって⁉生まれ変わったらもったいない。もう充分に素敵なんやから。」って…。「えっ?」と思った。


 今まで私がこうしなきゃ前に進めないと思っていたことが全く逆のことを言われたのだ。「ただ、今の自分が、どんな気持ちかを自分で認識していくことが大切だよ。」と言われたのだ。


 私は、自分の中の生き物と会話することを発見したことが、この上なく嬉しかったので、素直にみとさんの言葉を信じて、犯人を捜すことをやめると決めた。身体の不調の原因を探す以外は。


 自分の中の感情との会話は、日々の訓練の積み重ねだった。気づいたことは、今までの自分の人生において辛かったこと、失敗したこと、特に私の場合は、離婚と父の死が重なった時期に家族から責められたことが大きく影響していたということ。どうにか溝を埋めたくて、子どもを育てることに必死になるけれど、それさえ自分を追い詰めるプレッシャーばかりになり、いつも「私が間違えて選択するから。」「私は周りの人のように大人になれていないのだ。」「もっとちゃんとしなくては。」という気持ちが、自分の根底にあったのだ。心がバランスを崩しても、そんな自分は常に自分を責めている。


 自分と会話することができるようになってくると、自分がいかに自分を追いつめていたかを知ることができた。厄介だったのは、自分と対話していく中で、序々に他者との関わりを取り戻していく過程だった。対話していく中で、自分の感情の癖みたいなものを知っていくと、何か出来事が起きた時に、私は、2つの行動パターンに分かれてしまうのだ。みとさんが、セッションの中で、うまく見つけて表現してくれたのが、一つは、出来事が起きると「非常階段に一気に登り詰めて、放送しちゃう怒りのパターン。もう一つは、非常階段から一気に地下室に閉じこもるパターン。他者との会話で、リズムを崩すと、どちらかに入るパターンが増えてきたのだ。元からと言えばそうなのだが、感情を対話することを覚えた自分は、以前の自分がまるで信じられなかったので、このパターンが始まると、どうしていいのか分からなくなるのだ。


 みとさんに話すと、その時の気持ちによーく目を向けてみようと言われた。怒りの時も地下室の時も、実は、私の防衛本能で、よくよく見ていけば、すごく子どものような気持ちなんだと気づきました。「そのパターンが悪いわけではない。でも変えたいと思うのならば、その気持ちを丁寧にみていこう。」伝えてくれました。そして、私は、純粋な素直さのある自分、子どもらしい自分も私の大切な部分だと。大人にならなくちゃって思うことも大切だけど、私のこの部分は、大切なところだと初めて自分を認めてあげられるようになった。


 そして、みとさんは、一つ私に心のプロでクターも必要だね。と防衛本能とは別に、物事の中でも本当に必要な本質を自分で見つけていくことを伝えてくれた。不思議とすごく安心している。自分が生きてきた中で、こんな感覚は初めてだった。もし、もっと若い頃に、みとさんのセッションを受けていれば、私はきっと若い頃に感じた生きづらさはなかったんじゃないかと思う。


 今までも、十分に頑張って生きてきたけれど、自分の人生という車のハンドルは、自分で握れていたとは思えなった。自分のことを信じてあげたり、愛おしいと思えていなかった。いつも足りない、不十分だとばかり思ってきた。


 みとさんのセッションは、何気ない日々、自分が感じたことをそのまままるで物語を話すようなものだ。でも、その中にちらばっている目に見えない感情をたくさん見つけてくれる。感情にそれは良い悪いだなんて一切ない。


 パズルのピースのような欠片たちを拾いあげて、ちゃんとピースをはめることができる。それだけでも、自分という人間を初めて知るような感覚になる。だけど、セッションは、回数を重ねるごとに、彼女には、まるで先が見えていたのか?と思うほど、不思議なのだけれど、「春にはね、こんな感じになっているような気がする…」と言ってくれていたように、少しずつ自分の周りとの関係や自分の環境が変わっていった。それは、良いことばかりでもない。周りとの関係で落ち込むこともあった。でも、その度に、自分が立ち上がっていく過程では、必要なものをセッションで、またパワーアップするそんな繰り返しだった。


 だから、私は、彼女を本気で魔法使いだと思っている。セッションの回数も減ってきた時、私は彼女と初めて会った時、「緑が綺麗になった頃に、きっともう大丈夫なってそうな気がする」と言われた。本当かな?と思いつつ、必死にセッションと現実を歩いてきた。不思議と緑の頃を目標にして焦るということはなかった。勝手に導かれたのだ。焦る時も、いつも今の自分の足元と、そして心に寄り添ってくれたから焦ることもなく忘れていた。


 でも今、私は、今までの自分も、そして、今の自分も一番好きになった。生まれ変わりたいと思っていた自分はもういなくて、もっと生きることを楽しみたい、知りたい、学びたいと思う。自分のことをもっと大切にする。生まれ変わったというより、いっぱいの荷物を下した身軽な自分だ。


 今は、家族、弟、妹とも良好な関係を築けている。そして、何より家族4人で毎日過ごせている。小さな出来事に悩むことはあるけれど、沢山になりすぎた時は、セッションで大切なものを見つけ、また中心に温かなものを抱えて進める。今、振り返って思うことは、私を一番温かくしてくれたもの、家族。それを初めてセッションで鮮明に引きだしてくれたみとさん、そして、セッションでのアート。ずっとそのイメージが浮かぶと、ぶれた時も必ず戻ってこれる。


 私は、彼女に出逢えたことを奇跡だと思っている。目の前の世界が完全に変わった。光に満ちた世界に変わった。セッションは、幸せになるために……本当にそうだと思う。生き方を変えてくれた恩人。


そして、私が命を落とさず、今、生きれていること、本当にありがとう。



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